欧米人は「民度」を看破していた!

「シナには平等はあっても自由はないから,そこに生れる統治形態は当然に専制政治である」

http://m.youtube.com/watch?sns=gr&v=gLmYqvaqVm4

「彼らは機会ある毎に人を瞞(だま)すので有名である」

「この民族の著しい特徴は,彼らが凡そ精神に属する事柄に,すなわち自由な人倫とか,道徳とか,心情とか内的な宗教とかに欠けている」

「というのは,客観的な存在と,それに対する主観的な運動との対立がまだないために,変化というものは一切なく,いつまでも同一のものが繰り返して現れるという停滞性が,われわれが歴史的なものと呼ぶものに取って代っているからである」

「主観性の契機,いいかえると個別的意志を絶滅する力である実体に対する個別的意志の自己反省の面は,或いはこの力が個別的意志自身の本質として立てられ,個別的意志がこの本質の中で自分を自由として知るという面は,ここにはまだ存在しない」

「普遍的意志は全個別的意志によって文句なしに受け入れられる」

「このシナにおいては,普遍的意志は,すなわち個人が何をなすべきかを言い表しているものであり,したがって個人は無反省的に,没我的に,これを遵法し,これに服従する」

「もし個人が服従しない場合,すなわち個人が実体の枠を踏み越える場合にも,この逸脱は自分の内省に基づいて行われたものではないから,個人は内面性(道徳的心情)によって制裁されるのではなくて,外面的なものによって制裁をうけるにすぎない」

「われわれの処では人間は,ただ法律の前においてのみ平等であり,財産の所有の面で平等であるにすぎない.またその外にも,自由がわれわれにとって存在すべきかぎり,人間は保証されねばならない多くの利害や特殊性をもっている」

「けれども,シナにおいては,これらの個々の利害も,それ自身としては認められない」

「懲戒の場合には犯罪防止の根拠は単に罰に対する怖れであって,不正に関する内面的な意識ではない.というのは,ここではまだ行為そのものの本性に関する反省は前提されていないからである」

「また,そこには名誉心というものもなく,何人も他人に比べて特別な権利をもつというわけでもないから,自然に卑屈の感情が一般を支配することになり,それはまたやがて自暴自棄の意識に移って行く」

「シナ人の甚だしい不道徳は,この自暴自棄と関係しているのである」(G・W・F・ヘーゲル「歴史哲学」岩波文庫

「食○中華」

http://m.youtube.com/watch?sns=gr&v=zP4rkSNw2rY

〔フレデリック・V・ウィリアムズ記者「Behind the News in China」〕

「私はサンフランシスコの新聞記者をしていたころ,暗黒街のアヘンが,アジアから米国に運ばれ,米国内の支那人の手に入ってゆく径路を調べたことがある.そして後年,支那および満州において,それが生産,販売されるルートを覗いた.まづ第一に指摘すべきことは,近年,支那人にアヘンの用法を伝授したものはいない,といふことである.支那大衆は始めから,その用法を心得ていた」

「諸君がアジアに住み,支那商人から物を買う時,同じ品物の値段が幾とほりにも変化するのを知るであらう.アジアに住んだことのある諸君は,支那人が最初に言ふ値段どほりには決して買はぬであらう.すなはち,その商人と交渉し,さんざんに値切り倒す.さうすると彼らは次第に値を落し,最後には,最初の値段の1/3か1/4になつてしまふ.要するに支那人の生活は,幾百年もの間,烈しい闘争の生活であつたため,金が彼らの神になつてしまつたのである」

「しかし日本人一般については,約束は正直に守られ,一つの国民性にもなつている.そして,かういふことは,支那人には絶対に当てはまらぬのである」

「もし諸君が支那で商取引をする場合,信用できる署名をもらひ,その契約を租界内の裁判所に保証してもらはねばならぬ.さもないと,その契約は何の価値も持たない.すなはち,諸君は自分が正当な論拠を持っているといふことだけでは頼りにならぬのであって,もし今の支那に法律があるとすれば,必ずや法律上の手続きを根拠とするか,または実力を行使できなければならぬ.その時はじめて,諸君の主張が通るのである」

「しかし一般の日本人との契約ならば,署名さへも要らぬことがある.それは,日本語にいはゆる「義理」のごとく確実だからである」

支那は,子どもにとつての地獄である.ことに,子どもが女子ならば,よそに与へられ,あるひは奴隷として売られる.また支那には,飢えや凍えのため死ぬ外ない棄児を収容する外国の使節があるが,しかしそれでも,生れたばかりの赤ん坊が無慈悲にも路傍や慈善施設の入口に放置されたり,あるひは家族が多くて養ひきれぬため河の中に投棄されたりする.これに対し,日本は子どもにとつての天国である.日本では児童虐待は犯罪である」

日本人の観念!

http://m.gree.jp/?mode=profile&act=look_diary_entry&ucode=36983384&bi=urn%3Agree%3Ablog%3Aentry%3A596085593&gree_mobile=c7bd8d29142f2cf498d425be35e8b1b9

〔日本と支那朝鮮の異質!「人類共通の思考の偏向性(五)支那大陸の道徳の在り方」飛騨福来心理学研究所「宇宙と人生」第285号〕

「同一黄色民族でも支那大陸は雨が少なく柔軟草の少ない地帯では狩猟が主となり,時には人肉まで食った民族は白色民族に近い潜在意識を持っています」

支那大陸では神人土を踏まずと申し,御殿から御殿に移るのに馬車を用いて,農耕を賎しみ,下臣は王をたおして王位を狙い道徳らしいものがなかったのです.そのために天下の平安を求めて,天を拝む道徳教(儒教)の孔子,孟子,朱子,王陽明等が出る必要があったのです」

支那南部は雨が多く,気候温和で食用の菜葉が豊富であったので老子の如く虚無的な哲学が生れたのです.老子は「無」を中心として説き,無為自然,無欲恬淡,謙下不争を説き

「道徳を説くから却って悪い者が出る.枡があるから枡目を誤魔化す者が出る」

と云ったのです.孫弟子の列子は「五百人が飢えて死にそうである時,眉毛一本抜けば救われるとしても,我は抜かぬ.何となれば,彼らと我は何ら関係がない.我の体は髪も膚も尊い父母に受けている.何で,眉毛一本でも彼らの為に抜く必要があるか」

と云って徹底的な個人主義の無道徳を主張しました」

「これに神秘的な信仰が結合して下層民に蔓延しました.六朝時代の知者が竹林に集って「王様から世の為になってくれ」と招かれたが,

「世の為になって何になる.それよりお茶飲め,飲め」

と騒いで遊んだ七人を

竹林の七賢人」

と讃えたり,父が流された時,子が「助けてくれ」と叫んでも誰も知らぬ顔,そこで百銭出して頼むと,河中の父が「百銭は高すぎる.五十銭でよい」と叫んだので沈んで逝ったよ,と語る笑話がある程に冷たい人情の話があり,王が

「まだ人肉を食べた事がない」

と申された為に,料理方の娘が,父の出世の為ならと,裸になって焼き鍋の中に身を投じて王の餌になったという孝子伝が生れるような国柄が出来たのです」

文化大革命の時,恩師を殺して食べて,次々と攻めた青年もあったと噂が流れました」

日本では「これをしないよう要注意!」 中国の習慣を持ち込むと・・・=中国報道