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交差点か袋小路か

 香港のように、多くの国から多くの人種の人たちが集まる場所を「地球の交差点」と表現することがあります。すると、他国からの訪問や定着を拒み「純粋な単一民族」を理想とする国は「地球の袋小路」ということに?

【ただいま読書中】『紀州藩徳川吉宗 ──明君伝説・宝永地震・隠密御用』藤本清二郎 著、 吉川弘文館、2016年、1700円(税別)

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 源六(のちの新之助、吉宗)の誕生はきちんと記録されていません。紀州藩主光貞の四男で母が卑賤の女中だったからでしょう。それどころか、源六より17年前に産まれて十三歳でなくなった二男次郎吉の記録と混同している部分がある、と著者は史料を分析して指摘しています。

 元禄十年、光貞は将軍綱吉のお成りを得て二人の息子のお目見えを実現させます。お成り御殿を建てたりの準備に莫大な費用が必要でしたが、二人とも「三万石の大名(領地は二人とも越前国)」に取り立てられる、という“成果”を上げます。世子綱教はすでに綱吉の娘を嫁にもらっていましたが、その弟二人にも将軍からの“それなり(尾張や水戸家の世子とほぼ同等)の地位保証”を取り付けたわけです。

 主税頭(ちからのかみ)頼方(のちの吉宗)は「大名」として紀州や江戸で暮らしますが、特に紀州では、釣りや狩りで忙しくしていましたが、高齢の父の名代としての公務もこなすようになっていました。世継ぎのスペアのはずですが、父親は頼方に何らかの期待をしていたようです。

 宝永二年、子どものいない兄二人と父が死去。頼方は22歳で家督相続をすることになってしまいました。綱吉の「吉」をもらって「吉宗」となります。それに伴い越前の領地は将軍家に返却しています。藩主になった吉宗が直面したのが、巨額の赤字でした。城下近くの名草郡の豪農からだけで千両以上の借金。松坂の豪商からは五百両、幕府からは二万両。吉宗の父光貞はすでに人材を登用して農政改革を始めていました。年貢完済・新田開発・検地の徹底などにより、生産力と年貢高の増加がもたらされます。

 宝永四年、大地震津波紀州藩を襲います。宝永大地震です。これは南海トラフ地震震源域は紀伊半島の南側。紀州藩はその直撃を受けたわけです。幕府も全国的な損害を重視して損害調査に乗り出しましたが、紀州藩はその幕府の動きを見ながら、自分たちの調査を行いました。そして被災民への援助や復興工事を開始します。また、次の災害対策も考えられ、たとえば、城下全体に聞こえるように鐘撞き堂が建設されました。これは、ふだんは時を告げる鐘ですが、緊急時には滅多撞きをする施設でした。また、そういった非常時の人員動員の規則も整備されました。

 7年後の8月に強烈な台風が紀伊半島を襲い、紀州藩は大きな被害を受けると共に大凶作に見舞われます。米価は4倍に高騰。年貢は激減、城下に乞食が増えます。飢人のための公共事業も行われました。

 藩主となって11年後、吉宗は将軍になってしまいます。徳川将軍では希有の「災害対策を身をもって知っている将軍」の誕生でした。これが「享保の改革」に大きな影響を与えたであろう、と本書では述べられています。たしかに、大奥で産まれて育っただけの将軍とは全く違った「世の中の見方」を持っていたであろうことは、簡単に想像できます。