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【そもそも人間学とは何か】 学修の基本則:先憂後楽

知古嶋芳琉です。

引き続き、

私が師事した安岡正篤師の講義録、

『人物を創る』「大学」「小学」(プレジデント社

の中から、

この本の後半の、

『小学』をご紹介しています。

−−−ここからは引用です−−−

処世の根本法則 小学

第一章 独を慎む

3、 学修の基本則

○ 先憂後楽

−−−原文−−−

范文正(はんぶんせい)公、

少(わこ)うして大節(たいせつ:人の守るべき大きな

節操。大切なみさお。君臣・父子・男女などの間にお

ける節義(せつぎ:人としての正しい道を踏み行うこと))

有り。其の富貴(ふうき)・貧賤(ひんせん)・毀誉(きよ

:けなすこととほめること。悪口と称賛)・歓戚(かんせ

き)に於いて一(いつ)も其の心を動かさず。

 而(しこう)して慨然(がいぜん)

天下に志(こころざし)有り。

嘗(かつ)て自(みずか)ら誦(しょう)して曰く、

「士には当(まさ)に天下の憂いに先んじて憂い、

天下の楽しみに後れて楽しむべきなり」と。

 其の上(かみ)に事(つか)え、人を遇するに、

一以って自ら信にし、

利害を択(えら)んで趨捨(すうしゃ:進むことと止まる

こと。進退)を為さず。

其の為す所有れば、

必ず其の方(みち)を尽くして曰く、

之を為(な)す我による者は当(まさ)に

是(かく)の如くすべし。

其の成ると否と我に在らざるある者は、

聖賢と雖(いえど)も必する能(あた)わず。

吾れ豈(あ)に苟(かりそめ)にせんやと。

 (『欧陽文忠公文集』)

−−−原文の解説−−−

 范文正(はんぶんせい)公は、

その名を仲淹(ちゅうえん)といい、北宋時代に於ける

名大臣・名将軍として、

「行くとして可ならざるなき(何をやっても、みな十分の

成果をあげることができる)」人物であったばかりで

なく、人間としても実に立派な人で、「天下の憂いに

先んじて憂い、天下の楽しみに後(おく)れて楽しむ」

の名言は、彼の「岳陽楼記」の中の一節であります。

 さて、本分は、

「范文正(はんぶんせい)公は、

若くして大いなる節義があった。

したがって富貴(ふうき)とか貧賤(ひんせん)とか

毀誉(きよ:けなすこととほめること。悪口と称賛)とか

歓戚(かんせき:喜憂。戚は憂える)というようなことに

は少しも心を動かすことはなかった。

そうして慨然(がいぜん:いきどおり嘆くさま)天下に

志(こころざし)を持っていたのである。

 かつて自(みずか)ら誦(しょう)して言う、

「士というものは天下万民の楽しみに後れて楽しむ

べきである」と。

その上(かみ)に仕(つか)え、人を遇するを見るに、

ひたすら自らを信にし、利害を計って付いたり捨てた

りするようなことはなかった。為(な)す所あれば、

必ず方義を尽くしてこれに当たった。

そうして言うには、

「自分が自律的・自主的に立ってやることは、

当(まさ)にかくの如くすべしという

至上命令に従ってやるべきで、

成る成らぬというものは、即ち運命というものは、

必ずしも自分の意志通りにゆくものではない。

これはいかなる聖賢といえども必することのできる

ものではないのであるから、

どうしてかりそめにやってよいものであろうか。

ただ、

人事を尽くして天命を待つほかはないのである」と。 

范仲淹(はんちゅうえん)という人は、

こういう人であったわけであります。

−−−原文−−−

明道(めいどう)先生曰く、

聖賢の千言万語、

只(ただ)是(こ)れ人已(すで)に

放てる心を将(も)って、

之(これ)を約(つづ)めて

反復身に入れ来たらしめ、

自(おのずか)ら能(よ)く尋(たず)ねて向上し去り、

下学(かがく)して上達せんことを欲するなり。

 (『二程遺書』)

−−−原文の解説−−−

 聖賢のあらゆる教えは、

要するに外へ放り出してしまって

外物に支配されている心を掴んで、

これを要約して、

その抜けてしまった心を自分に反(かえ)らしめ、

自分でよく反省し追求して、そうして向上していく。

自分は低きについて学んで、そうして上達していく。

我々人間には三つの原則があります。

第一は自己保存。

身体の全機能・全器官が

自己保存のために出来ておる。

第二は種族の維持・発展。

腎臓、大脳にしても、あらゆる解剖学的全機能が

そういうふうに出来ている。

第三には無限の精神的・心理的向上。

人間は他の動物と違って、

精神的に心霊的に無限に向上する、

いわゆる上達するように出来ておる。

これは人間自然の大原則でありますが、

近代文明は

誤ってこの厳粛な三つの原則の

いずれにも背きつつある。

文明の危機に到達した原因はここにあるのです。

これは

今日の

科学者や哲学することのできる学者たちの

一致して論断するところでありますが、

明道先生は何百年も昔に

はっきりとこれを指摘しておるわけであります。

要するに

人間というものは、

自分が自分にかえって

無限に向上するということが大事であって、

これは古学も現代学も、

哲学も科学も変わらざる真理であります。

−−−原文−−−

 顔氏(がんし)家訓(かくん)に曰く、

人の典籍(てんせき)を借りては皆須(すべか)らく

愛護すべし。

先に欠壊(けっかい)有らば、

就(すなわ)ち為に補治(ほち)せよ。

 此れ亦(また)

士大夫(したいふ)百行(ひゃくぎょう)の一なり。

 済陽(さいよう)の江禄、

書を読んで未だ竟(お)えざれば、

急速有りと雖(いえど)も、

必ず巻束(かんそく)整斉を待って

然(しか)る後(のち)起(た)つことを得たり。

故に損敗(そんはい)無し。

人其の仮(か)るを求むるを厭(いと)わず。

几案(きあん)に狼藉(ろうぜき)し、

部秩(ぶちつ)を分散することあらば、

多く童幼婢妾(ひしょう)の為に点汚(てんお)せられ、

風雨虫鼠(ちゅうそ)に毀傷(きしょう)せらる。

実に徳を累(るい)すとなす。

吾れ聖人の書を読む毎(ごと)に

未だ嘗(かつ)て粛敬(しゅくけい)して

之に対せずんばあらず。

其の故紙(こし)にても

五経の詞義及び聖賢の姓名有れば

敢えて他に用いざるなり。 (『顔氏家訓』)

−−−原文の解説−−−

 顔氏(がんし)とは顔回(がんかい)ではなくて、

南北朝時代の斉(せい)の顔之推(がんしすい)のこと

です。

なかなかの教養人で、

『顔氏家訓』という書物を見ても、

思想・見識はもちろん、

文芸の面からいっても立派なものであります。

<人の書物を借りた場合には

大事にしなければならない。

借りる前に壊れておるところがあった時には、

これを補修せよ。

これは士大夫として行なわなければならぬ

百行の一である。>

 済陽(さいよう)の済は山東の川の名で、

陽は水の場合は北を指し、陰は南、

山の場合は反対。

<そこで済水の北の江禄という名高い読書人は、

書を読んで未だ終わらぬ時には、

どんな急用があっても、

必ず書を元に巻きかえて

(その頃の書物は主に巻物であった)、

その上で起(た)った。

だから書物が損じたり壊れたりすることはなかった。

そこで人は彼に書物を貸すのを、

むしろ貸せば立派になって返ってくるので

誰も嫌がらなかった。

机上におっぽり出して、

あっちこっち散らかすと、

たいがい幼児や召し使いのために汚されたり、

風雨虫鼠に壊されたり傷つけられたりする。

実に徳を累するものである。

自分は聖人の書物を読む時には、

未だかつて厳粛に敬って

これに向かわなかったことはない。

どんな古紙でも五経の言葉や聖賢の姓名があれば、

絶対に他に用いるようなことはしたことがない>

 これが人間の心得というもので、

大事なことは

それ以前の本能的直観、

あるいは徳性、

そういうものを豊かにすることであります。

−−−引用はここまでです−−−