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「答えがない」それが道徳。

某新聞に上がった、12歳の中学生に拠る投稿。

いやはや、驚いたというか、この感性にとても感心・・いや、率直に感動しましたねぇ。

昨今話題にもなっている「教育勅語」もそう。

大人が、大人の論理やその背景にある様々な思惑で、教育そのものを形作り、

そして子供へと嵌め込もうとする・・。

それはまさしく「教育」なのだから、大人が子供に対して施す教えとして当然だ・・

という固定観念や、それに対して何の疑問を持たず世の中は構成されているけども。

その点でこの道徳も、やはり大人が作り上げる世の中の有り様として、

一定の規範や方向性を敷いていくわけだけど・・

しかし、「こうであるべし」「あらねばならない」という決め事、枠組みは、

その程度・内容如何で過度な抑制や、不健全な拘束を強いる危うさもあり、

果たしてその内容は、時代性の変化や多様な価値観が生まれ出る世の中に対して、

どんな局面でも共通し適合するものであるか否かは、常々その時々で照らし合わしていかねば

正しいかどうかは判定出来ないものでもあるように思うわけで・・。

混沌とする世の中だからこそ、道徳的なものをきちんと骨子に据え置くべきであるというのと、

混沌とする世の中だからこそ、柔軟性を持ってして多様な感覚や思考力を持つべきというのと、

二律背反なものだからゆえに、尚更難しいもの・・という前提は決して無視出来ないのであり。

昔風な道徳を、あえて乱雑に言ってしまえば、「物事はこうである」とし、

半ば植え付けていくかのような所があったかもしれない・・とすれば、

結果論として、時代と共にそれで良かった面があったのかもしれない、と。

しかし、今のような時代ともなると、そのような定義付けや植え付けだけで、

果たして本当に子供達が健やかに、かつ不透明な時代の中で生き抜くことが出来るかを

考えた時、旧式の手法や内容ではもはや無理があるのではないか・・そんな風にも思う所で。

この投稿文にある「色々な視点から物事を考える」ということは、

何をするにも重要なことであり、そして「こう考えるように」等の答えを作るようになってしまうなら

評価をしない方がいいのではないか・・というこの子の考えは、

多様性や多角的な視点を持つ上では寧ろ、あるべき姿なんじゃないのかな、と。

「道徳的なもの」としては、教えるというより「間接的に示す」ものであるべきで、

子供がそれを観て何を感じ取っていくか、学んでいくか・・そこが重要なんじゃないかと。

「子は親の背中を見て育つ」ということわざにある、ポジティブな側面で言うなら、

親や大人達が生きる、歩む姿の中から、道徳的なものを子供が自ら見出す、感じ取る・・

この力をつけていくことが、道徳的なことを学ぶ上での原動力だと思うのであり。

その点では、「こうであるべきだ」という、大人側によるガツンとした教えは、

思考力が育まれる途中段階にとって、ある種の忌避をもたらす性質が元々あるので、

寧ろ逆効果に至る事が少なくないとも思うわけで。

「答えがない」というこの結論に至るまでには、多分この子は色々と“考え抜き”、

そして“悩み抜いた”のじゃないのかなと。

その挙句が、「そうそう答えなんて弾き出せるもんじゃない・・」という所に行き着いた。

考えないで、または考えることが面倒だから「答えなんて簡単に出ないよ・・」というのなら、

それはよろしくないけども、考え悩み、迷走した上でそれでも答えなどないとしたなら、

それは凄い成果なんじゃないか、と。

そうやって考え続けて、あちこちに振られながら大人に近づき、

その時の思考力で段々と道徳的なものを見出していく・・

それが本来のあり方なんじゃないのかなと、この子の投稿で気付かされたのです。

その考え方や道筋を、最低限付けさせる、というより「用意してあげる」・・

これが大人側による責務であって、その上での最低限のルールや規範・・

即ち、その中で起こり得る議論や対話上、相手の意見に耳を傾ける方法や尊重の仕方、

暴力的なことや不適切なものにならない為の決まりごとさえ伝授すれば、

あとは子供達に拠る自力での模索を促す・・それだけでいいのかもしれない、と。

そう、道徳的な答えなど、長年かけて、大人に近づいた時「これだ!」と掴み取るぐらいでいい、

いや、そうであるべきなんじゃないのかと思った次第であります・・。