【読んだ本メモ】東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)

いまでこそ特別オタクを自称していない人でも誰でもアニメを見て、今期はなにが面白いだとか誰が萌え萌えだとかを大きな声で語れる世の中ですが、ひと昔ふた昔前はちょっとそんな自由な空気ではなかったこと、覚えているだろうか。

そんな風に感じてたのは僕だけだろうか。

20年ほどまえ、1990年代なかばの僕が小学生のときには、同級生の間では「アニメ見てるヤツはイケてない」みたいな風潮があって、それでも僕は勇者シリーズGガンダムスレイヤーズは好きでこっそり見ていたのだ。

新・天地無用と、マスターモスキートンだっけか、あれも好きだったな。

マスターキートンじゃないぞ。

すっごい面白いと思いながら見ていたが、小学校の同級生とアニメ話で盛り上がるようなことはなかったな。

うっかりアニメの話しようものなら、「えーおまえアニメとかみてんのー」ってからかわれるような始末。

それでも当時から僕は小賢しかったので、からかってきたそいつがドラえもんを見ていることを知っていたから、「勇者シリーズドラえもんは同じアニメだが、なにが違うのか??」ときいて、「うーむ」と黙らせた思い出があった気がします。

小学生ルーザーのイキリオタクエピソードだ。

今の小学生はこんなふうになこと気にすることはないのだろう、たぶん。

かつてのアニメを見ない層は「アニメなんか見てるオタクとかキモい」と言い、オタクはオタクで「オタクの世界は俺たちオタクだけのものだから一般人は入ってくるな」みたいな対抗意識を持っていたんじゃないかと思う。

いまでこそこんな垣根のようなものは、すっかりとは言わなくてもだいぶ薄れているのだろう。

新・天地無用の話が当時できたら幸せだったろうなと、今でも思っている。

この本では、日本でポストモダンと言われる時代に合わせるかのごとく台頭してきたオタク系サブカルチャーに注目して、その時代のオタクの消費行動を分析することで現代社会を読み解こう!ということをメインテーマにしている。

ちなみに初版が2001年の本なので、その頃のものだというのは考慮に入れて読む必要があると思う。

ポストモダン」とは1960〜70年代以降の文化的世界を表す言葉なのだけど、この本では大雑把に70年代以降の文化的世界を指している。

様々なジャンルの文化が変容してきて、それらが50前年や100年前から続く文化の延長線上にあるものとして理解することができなくなった時代。

この本によるとオタク系サブカルチャーの起源は、1960年代くらいと思われる。

そこからポストモダンに至るまで日本全体はどのように変化していったのか、それとオタク文化にはどんな相関関係があるのか。

読み終わってみると「なるほどなるほど」と「ホンマかいな」が入り混じったような感想を持つことになったけど、こんなふうに世相を読み解く方法があるのだなって知れたのはたいへん面白かった。

聞き慣れない哲学的な用語もちょろちょろ出てくるので、感想を挟みつつちょっとずつまとめながら読みました。

雑なまとめだけど、まぁ、「ゲンロン0」再読の際の補助的な役にはたってくれるだろう。

オタク系サブカルチャーの源流はどこかってたどってみると、戦後にアメリカから輸入されてきたサブカルチャーを日本化していったというところがオタク文化の発祥であると言えるようなのだ。

そこから始まった日本のオタク文化の特徴そのイチ、「二次創作」について。

フランスの社会学ジャン・ボードリヤールは、

ポストモダンの社会では作品や商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなり、そのどちらでもない『シミュラークル』という中間形態が支配的になる」

と予測した。

オタク文化における「二次創作」がまさにそのような状況であると思われる。

生産者にとってもオリジナルとコピーの区別が消え、原作とされている作品でさえ先行作品の模倣や引用で世界が作られることが多い。

オタクの特徴としてもうひとつ、社会的現実よりも虚構を核とする集団へ帰属することを重視していることがある。

家族とか友人とかの社会的な付き合いよりも、アニメとかまんがとかの作品による繋がりを重んじているということだね。

このために、非オタクからは現実とゲームの区別がついていないなどと見られている。

けれどもまぁ、もちろんオタクは現実と虚構の区別がついてないなんてことはなくて、アイデンティティをどこに求めているのかという違いなのだ。

オタクにとっては、社会的現実の与えてくれる価値規範よりも、虚構が与えてくれる価値規範のほうが彼らにとって有効だとされた結果なのね。

(虚構のほうがおもしれえもんなぁ、楽しいもんなぁ)

この誤解はいまだにあとを引いているようで、犯罪事件が起きたらその原因に残酷なアニメとかゲームの影響があったのではないかと結びつけたがメディア報道はたまーに見られますよね。

ポストモダンは「大きな物語」が失われた時代であるという。

大きな物語というのは、近代国家の成員をまとめるためのシステムの総称であり、それはある思想であったり国家体制だったり経済的な生産の優位だったり、社会全体の規範になるもののことをいう。

大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範に取って代わられる現象は、フランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」に対応していると言える。

ポストモダンに至る以前、近代は社会が大きな物語で支配されていたが、ポストモダンではそれが機能しづらくなり、社会全体のまとまりが弱くなる。

具体的に日本での大きな物語の凋落がいつどんなだったのかというと、70年代に高度経済成長の終わり、石油ショック連合赤軍事件を経たころだった。

オタクたちが出現したのはその時期だそうだ。

大きな物語の機能した近代においては、我々の意識に写る表層的な世界と、その表層を規定する深層・大きな物語があった。

深層の構造を明らかにすることが学問の目的だと考えられてきた。

しかしポストモダンの世界では、深層が消滅し、表層に現れる記号が無数に結合していくシミュラークルの層と、その設定であるデータベースの宿る層の二重構造となっている。

さらに時代が降ってメディアミックスの進んだオタク文化においては、データベースを参照した萌え要素の組み合わせ・出力結果であるキャラクターが商品になり、物語が添え物となっていく。

19世紀のヘーゲル哲学では、自己意識をもつ「人間」は同じく自己意識を持つ「他者」との闘争によって(この過程を「歴史」と呼ぶ)、絶対知や自由や市民社会へ向かっていく存在だと規定される。

で、この意味での「歴史」は、19世紀初めのヨーロッパで終わった。

そして「歴史の終わり」があり、近代の誕生だと言った。

フランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴは、『ヘーゲル読解入門』のなかで、歴史の終わりを迎えた人間は、アメリカ的な消費者の姿である「動物への回帰」or日本的スノビズムのどちらかの生存様式に向かうしかないと述べた。

コジェーブが解釈するヘーゲルでは、人間が人間であるためには、与えられた環境を否定し、自然と闘争しなければならない。

それに対して、動物は常に自然と調和する。

ここから、メディアが要求するままにモードが変わっていく戦後の消費社会は「動物的」と言われる。

動物的な社会では飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。

それに対してスノビズムは、与えられた環境を否定する実質的理由がないにもかかわらず、形式化された価値に基づいてそれを否定する行動様式のこと。

無意味だとわかっていながら切腹するような。

のちにこれをジジェクシニシズムとして理論化し、その例ではだれもが嘘だとわかっていながらスターリニズムを信じることを挙げている。

スノビズムがデータベース的な消費に取って代わられる変化を、この本では、コジェーブの言葉を踏まえて「動物化」と名付けている。

人間は欲望を持ち、動物は欲求しか持たない。

欠乏→満足へと向かうのが「欲求」で、人間の生活の多くはこの原理で動く。

「欲望」は、望む対象が与えられても欠乏が満たされても消えることがない。

例えば性的な欲望では、男性は女性を手に入れた後でも他者に欲望されたいと思う。

他者の欲望を欲望する、そのため欲望は尽きることがない。

人間が動物と異なり自己意識を持ち社会関係を作ることができるのは、このような間主体的な欲望があるからで、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。

「動物になる」とは、この間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏→満足で閉じてしまう状態になることをいう。

ノベルゲーム全盛なころに書かれたものなので、データベース消費のイメージで取り上げられている作品は僕はろくに知らないものばかりでした。

この本では俗にいうオタク文化と言われるサブカルチャーを取り上げているけれど、あらゆる消費文化で起こっている/起こり得ることなのだろう。

この本で説明される「動物的」ってのが、わかったようで、いざ具体的にこういう行動が動物的なのだろうか?と考えだすとなんだか混乱してくるね。

単に動物的な欲求を満たすための消費なのか、データベース的な消費に見えながら実はその背後に小さな物語があるような、そんなパターンもあるんじゃないか。

と思ったら、そのへんはこの本の続編で書かれているようなので、そっちの作品論を読んでから考えることにしよう。

動物的でなにが悪いのか?

お手軽に気持ちよく満足を得続けられればそれでいーじゃん。

楽に生きられるために人類は成長し続けてるんじゃないのか。

……などなどという考えも、間違いだと否定できるものではないと思う。

ただ、動物的な消費をすることで不利益を被るとしたらなんだろうかと考えたときに、滅びゆく文化に気づけなくなることじゃないかな、と感じました。

「非合理で手間が掛かって生活の役に立たない、ただ美しい」そんなものが排除される世界はつまらなくないか。

欲求をすぐに満たすものでないけど、失われると人類文化にすっげー損失になるようなもの、そういうものに対して無頓着になってしまうおそれがあるのが、動物化した社会の恐ろしいところじゃないだろうか。

「動物的な消費社会になったらどうなるのか」を考えるときには、それがなにをもたらすかと同時になにが失われるだろうか?を考えなきゃいけないのかナ、と思いました。

まぁ、人類がみーんな「動物化」したらそんなのどうでも良くなるのかもしれないね。

あ、もしかしたらそれがエヴァンゲリオンでいう「人類補完計画」だったのかもしれない。

本編の内容とあんまり関係ないことで突っ込みたいところがひとつ、注釈の説明のここのところ。

オタク文化を、他の地名でナントカ系って呼ばれているところと並べて「秋葉原系」と言えるんじゃないかって書いている。

たしかに、「渋谷系」とか「原宿系」とか「下北沢系」はファッションカルチャー的な独自のイメージがあるから、そこには並べてもいい気がする。

ただ、「新宿系」については、若いころの椎名林檎がインタビューで自分の音楽ジャンルを聞かれて回答した際に発して、自分の肩書きにつけて造語的な言葉だと思うので、ここで並べるにはオカシイだろうと思う。

検索しても他に「新宿系」の持つイメージはないっぽいし。

ないよね。

これは東浩紀の誤解?なのかな。

いや、この本がでたころ、林檎が言った意味以外で僕の知らない新宿系があったのかもしれないけれど。

単なる都市イメージだとしても、どうしても林檎用語に見えちゃうから、並べるとニュアンスが違って見えてしまうな……

そんなことが気になった椎名林檎オタクでした。

ちなみに椎名林檎は、この発言の10数年のち、インタビューでインタビュアーから「むかしこんなことをおっしゃってましたよね」って新宿系と言ってたことをきかれたとき、「何を言っているのか全然わからない」「若くて必死だったんでしょうね」という意味のことを返していました。

上手く誤魔化し……言い繕ったものだなぁと思います。

ファンはいまだに「新宿系、カッコイイな!!」って勝手に思っているけれど、本人からすれば真ッ黒黒歴史……なのかも……しれませんね。